100326 グリグラ哲学カフェ「人はなぜ生きづらさを感じるのか?」

3月26日(金)のグリグラ哲学カフェには、
途中からきた人も含めて13人の方が参加されました。
なかには赤ちゃん連れのかたも二人。


カナダから一時帰国している参加者の
「日本の子どもは課題が多くて大変そう」という一言から、
テーマは「人はなぜ生きづらさを感じるのか?」に決定。


いじめや不登校鬱病、自殺などの例に触れながら、
生きづらいさの原因として、
コミュニケーション不足、目標・目的がないこと、
自分の意志通りに行動できるかどうかなどがあげられました。
また、コミュニケーションが重要と考える人のなかにも、
自分を理解してくれる相手の存在を重視する人と、
ありのままの自分をだせることがポイントだと考える人がいました。
(ありのままの自分が出せれば日記や趣味でもいいんじゃない?という意見も)


みなさん個々の要素については丁寧に説明してくれてどの意見も興味深かった。
でも困ったのは、それらの要素と「生きづらさ」との関連がなかなかはっきりしないこと。
「コミュニケーションと『生きづらさ』はどう関わるの?」
不登校の子をみて『生きづらそう』と感じるのはどうして?」
「クラスでいじめられてたら学校に行きづらいのはわかるけど、なぜそれが『生きづらい』になるの?」
「どうして目標・目的がないと生きづらいの?」
わたしは何度も何度も問いを投げかけました。
「こんなにしつこくて、参加者にうっとおしがられてないかな?」と思いながら。


今日はこのまま時間切れかなぁなんてあきらめかけたとき、誰かが赤ちゃんをみて言いました。
「赤ちゃんをみても、生きづらいか生きやすいかなんて思わないよね」
「赤ちゃんは、ただ生きているだけでいい」


そうか、「生きづらさ」というときの「生きる」は「ただ生きること」じゃない。
単に生命を維持するだけでなく様々な期待が含まれているんだ!。
「社会人として生きる」(=働いて経済的に自立する)、「人として生きる」(=???)など。


そもそも今回のテーマのきっかけは
「日本の子どもは課題が多くて大変」だったし、
「生きづらさ」というテーマが出た時点で、
「なんかおっきい(=漠然とした)テーマだなぁ」という感想は出ていたのです。


それは「生きる」という言葉に暗に込められた
学校に行くこと、働くこと、「空気を読む」こと
など、生命を維持する以上の様々な期待のせいだったんですね。
そして、
ありのままの自分を認めてくれる人がいることや
自分自身で達成可能な目標を設定することは、
過剰な期待の重圧から救ってくれるのかもしれない。


漠然とした「生きる」という言葉の漠然さそのものを掬いとれた気がして、
また「そのままでいいよ」と言ってくれる人のありがたさに気づいて、
一参加者としても得るものの大きいカフェでした。