100328 哲学カフェ@クロスロードカフェ「〈がんばる〉とは何か?」

昨日は、伊丹のクロスロードカフェで哲学カフェ。
進行役を務めさせていただきました。
参加者は19人。
老若男女はもちろん、中国人やインド人の方も。
いろんな方が集まって、ほんとに「クロスロード(交差点)」という名にぴったりの場所でした。
お店の人が働きながら、ちょこちょこ議論に入ってくれるのもいい感じ♪


テーマは当日参加者と相談ということで、「コミュニケーションのあいまいさ」、「人は完全に自由になれるか?」、「がんばるとは何か?」と3つ提案されましたが、多数決で「がんばるとは何か?」が選ばれました。
テーマの提案者とは別の方からも「鬱病の問題など、『がんばる』ということが必ずしも肯定されない今だからこそ、考える意味があるんじゃないか」とコメントがあり、なるほど。

  • がんばれる人とがんばれない人のちがいは何か?
  • がんばってるかどうか誰がどうやって判断するのか?(がんばってるつもりなのに「がんばってない」「もっとがんばれ」と言われることもあれば、がんばってるつもりはないのに「がんばってるね」と言われることもある。)
  • がんばることと、がんばってるように見えることは同じか?
  • なぜ「がんばれ」という言葉がマイナスのイメージをもってしまうのか?(「何かを「がんばる」と他のことを犠牲にせざるをえないから」、「ビジネスでは低コストでハイリターンのほうが評価される」、「中国語の『加油』とちがって相手に負担を強いるから」など)
  • がんばるまいとしてがんばってしまうことがある。どうして?
  • 上手にすることとがんばることは同じか?
  • どんなときに「がんばった」と感じるか? 
    • 結果の問題?期待値を超えたとき、目標を達成したとき。
    • 心情の問題?コスト、障害をともないながらもあることを実行するとき。
  • どういうときにがんばってるかどうかが問題になるのか?(本当に夢中になってるときは、がんばってるかどうかなんてどうでもいい)


とまぁ、このように、いろんな人が集まるこの場所らしく、それぞれの経験に照らし合わせて本当に様々な側面から問いや意見が出されました。


特に議論が紛糾したのは、「がんばって作物を育てたけど台風で収穫できなかった農家と、がんばってない農家だったら前者を支援する」という例について。
「プロセスなしに結果は得られない。でも、必ず結果がともなうかどうかはやってみるまでわからないようなことに対する応援、肯定の気持ち、結果とは別の評価(?)が必要になることもあるのではないか」という意見と、「でもそれは翌年の収穫率を見込んでの援助だから、やっぱり結果の問題なんじゃないか」という意見。
かなり説得力のある議論が展開されましたが、結局決着はつかず。
この問いが、今回の哲学カフェのお土産となりました。