「いい話」からもう一歩

そういえば、こないだのクロスロードカフェでの哲学カフェ終了後、
マスターから進行について面白い質問があった。


「あれ、いい話だったのに、どうしてあそこで終わらなかったの?」


「あれ」というのは、
「ほんとうに必死のときは、がんばってるかどうかなんてどうでもいい」という話。
ある参加者が家族を看病した経験から出した指摘だった。


リアルな経験に裏打ちされた重みのある言葉。
そんな言葉に出会えるのも哲学カフェの楽しみのひとつ。
だけど、それ以上にわたしは
その日のテーマでその日集まった人たちと
どんな思考が紡ぎ出せるか楽しみにしてる。
互いに刺激し合いながらセッションをするように
即興で紡ぎだされる共同の思考に。


だからその日その「いい話」が出たあと、
わたしはこんなふうにつないでみた。
「なるほど。がんばってるかどうかなんてどうでもいいこともありますよね。
『がんばる』はいつも重要なわけじゃない。
でもじゃあ、がんばってるかどうかが問題になるのはどういうときなんだろう?」


他にもっといいつなぎ方があったかもしれない。
けど、その後別の参加者が
「がんばったのに台風で収穫できなかった農家と、
何もしていない農家だったら前者を応援する」と
絶妙な例をだしてくれたおかげで、
そのあと議論はその日一番の盛り上がりを見せた。


「同じ結果でもがんばってる人のほうを応援したくなる。気持ちの問題」
「翌年の結果を期待してるから、結局結果の問題だ」
それまでバラバラに自分の立場を主張しいまいち関係のはっきりしなかった複数の立場が、
「どんなときにがんばってることが重視されるの? それはなぜ?」
という一つの問題をめぐって激しくぶつかり合い、
相違点と互いの限界をが浮かびあがらせる。


「いい話」をきくだけだったら、そういう話をしてくれる人の講演にいけばいい。
哲学カフェでは、「いい話」からもう一歩。
過去に誰かが発見したことを一方的にきくだけじゃなく、
今ここでこの人たちと紡ぎだす思考を楽しみたい。