100625臨床哲学セミナー「社会のベッドサイドで哲学を」

報告遅くなってごめんなさい。
先週金曜日の中之島哲学コレージュでは、
臨床哲学セミナー「社会のベッドサイドで哲学を」を開催。
開始時は40名いるかいないかでしたが、
その後じわじわ参加者が増え、
最終的には50名以上の方が来場されました。
通りすがりに足をとめて参加していくかたも多かった。


今回の企画は『ドキュメント臨床哲学』(大阪大学出版局)出版に合わせて企画されたものでしたが、
企画者の中岡成文さん(大阪大学文学研究科臨床哲学研究室、教授)のご提案により
あえて本の内容紹介したり、これまでの臨床哲学の活動を振り返るのではなく、
その場で実際にゲストや参加者とともに「臨床哲学すること」にしました。
神経難病であるALS患者の久住純司さん、
久住さんとともに活動をしている田坂さつきさんをお招きし、
ALS患者のためのスイッチをつくるピアサポートについて、
それらの活動や病気之経験から「希望」をかかげつづける生き方についてお聞きしました。


久住さんは「希望」には「欲」が欠かせないということをおっしゃいました。
また、久住さんのお話をきいた高橋さんが指摘したように、
久住さんの希望の捉え方は、とても主体的だったと思います。
それら、私が考えていた「希望」とはずいぶんちがってびっくりしました。
私は「希望」をもっと受け身のものとして考えてた。
それはそれで私自身の闘病生活からでてきた考え方で決して間違いではないと思うのですが、
一見正反対の久住さんの考え方と全く共通点がないとも思えず、
先週からずーっと考え続けています。まだこたえはでていません。


次回の中之島哲学コレージュは、「希望をもつ、ということ」というテーマで哲学カフェを開催します。
そこでまた参加者のみなさんと「希望」について考えられるのを楽しみにしています。
みなさん、ふるってご参加ください。


そして、今回は「希望をさがす」というテーマで久住さん、田坂さんにお話いただきましたが、
8月に再び久住さん、田坂さんにご協力いただき、今度は「技術」に関する企画を考えています。
これもまた楽しみ。


中之島哲学コレージュについて、詳しくはこちらをご覧ください。
それでは。

きくちさんの楽屋へ

先週のグリグラ哲学カフェの報告が遅れてごめんなさい。
今回は趣向をかえて、きくちの楽屋にお邪魔しています。
数回にわたってグリーングラスでの哲学カフェについてご紹介する予定。

そして今日はこのあと、中之島哲学コレージュ。
雨がちらついてますね。
乾きやすいリネンのワンピースをきていこう。

100609 哲学カフェ「幸せってなに?」

昨日は中之島哲学コレージュの哲学カフェ。
「幸せってなに?」というテーマに80人強もの方が来場され、
哲学カフェの最高来場者数を記録しました。


「幸せは主観的なものか?」
「『幸福度』ってどうやってはかるの?」
「幸せは結果かプロセスか?」
「ひとりだけが幸せな状態ってある?」
「何に幸せを感じるかは人それぞれだけど、そこに共通するアプリオリな幸せって何?」


問いを一つにしぼりきることはできなかったけど、
幸せについて考えるいくつかの切り口が浮かび合ってきて、
わたしもマイク係をしながら
興味深くみなさんの発言に耳を傾けていました。


で、そのマイク係ですが、昨日はちょっと失敗。
中之島哲学コレージュの前に別の用事があって
めずらしくパンプスを履いていったんです。
そしたら、コツコツコツコツ。
哲学カフェのあいだ、
マイクをもって会場を歩き回らなきゃいけないのに、靴音が・・・。
低いヒールで許容範囲かもしれませんが、反省。
次回からはちゃんといつもどおりスニーカーか靴音のしない靴を履くようにします。


ちなみにマイクには、
ちゃんと声が届くようにというのもあるけど、
たくさんの人が同時に発言しちゃうのを防ぐ効果もあります。
同時に二人以上の人が話しだすと、
ちゃんと一人一人の声をきくことができないので。
昨日はあまりに参加者が多く急遽会場用のマイクを1本追加しましたが、
みなさんの協力のおかげで、
一人一人の意見をじっくりきくことができました。


次回の中之島哲学コレージュは6月25日(金)。
詳しくはこちらをどうぞ。

哲学カフェ「なぜ結婚するのか?」

もう6月ですね。
忘れないうちに、5月のグリグラ哲学カフェについて報告しておかねば。

  • テーマ:「なぜ結婚するのか」
  • 参加者:11人


平日の昼間開催ということで、
いつもは参加者のほとんどは「お母さん」と呼ばれる方ですが、
この日は11人のうち独身男性が2名!
そのうちお一人が、
「自分は結婚は合わないからしたくないと思うのに、親は『結婚しろ』とうるさい。
なぜ結婚する(しなければならない?)のか?」
と問いを投げかけてくださいました。


グリグラ哲学カフェでは以前にも「結婚と同棲」というテーマで
「結婚」について考えましたが、反対がなかったので決定。
参加者が半分くらいちがうせいか、
(半分くらいは同じ人なのに)
新たな発見もあったし、
前にでた意見も新たに他の観点から見直せてよかったです。


また、議論の進み方も前とは全然ちがいました。
テーマを提案してくださった方の
「結婚したくない理由」に
結婚してる方がひとつひとつ反論していくのですが、
「結婚しない理由」を否定することはできても、
なかなか「結婚する理由」とまではならず。
その様子が、みていて非常におもしろかったです。


そして、「結婚したくない」彼の
「結婚は趣味みたいなもの。したいひとはすればいいし、
したくない人はしなくていいんじゃないか」
という意見と、
結婚してる人の
「結婚するのも面倒くさいけど、結婚しないのも面倒くさいのよね〜」
という妙に説得力ある発言から
「なぜ結婚してるほうが社会的信用を得やすいのか」
という問いが浮かびあがってきました。
ここで「なぜ結婚するのか?」という問いが、
単に個々人の結婚の理由を問うものではなく、
結婚と社会的信用を結びつける社会的風潮に対する問いに変換されます。


私が特に印象深かったのは、
「結婚によって、その人がどこの誰かがわかる」
という意見。
私が誰かは私自身の特性によってではなく、
他の人との関係のなかで決まるという考え方があるのは知っていたけれど、
結婚をそういうふう観点から捉えたことがなかったので新鮮でした。
その一方で、
「家族の前の私は本当の私じゃない。『母親』という立場を演じてるだけ」
という発言もあり。
結婚とアイデンティティ、なかなか興味深いテーマです。
友だちが結婚前に「結婚しても私のままでいられるかな」
と言っていたのを思い出したりもしました。


また、前回は同棲との比較から、男女のカップルを基準に
結婚の制度的な側面を中心に吟味されましたが、
今回は、夫婦中心とは別の共生について考えることができました。
子どもを育てない人は税金を多めに負担するといった
家族という単位ではなく社会という単位で協力し合う方法や、
独身女性が集まって長屋に住むなど、
夫婦を基準にした家族とは別の家族像の可能性が提示されました。


グリグラ哲学カフェで2度「結婚」というテーマを扱ったことで、
「結婚」というテーマの広がりと、
似たようなテーマでも参加者が一部変わるだけで新たな議論が展開できるんだ
という哲学カフェの面白さと
両方を感じることができてよかったです。

痛みの表現と伝え方

今はカフェP/Sでメディカルカフェですね〜。
ちょうど始まったころかな?
テーマは「痛みの表現と伝え方」。
とっても興味あるテーマで参加したかったけど、
体の声をきいて断念。



わたしは痛みとわりと日常的におつきあいしなければならない持病を抱えてるんだけど、
その診療過程で学んだのは、
お医者さんはこの痛みを感じたことないから、
お医者さんにわかる表現、
医学の教科書に書いてあるような表現じゃないと伝わらないってこと。


同じ病気をもつ経産婦の人は
「陣痛と同じ痛み!」って言うらしいけど、
わたしは陣痛を体験したことがないので
なかなかちゃんと痛みを伝えられず苦労しました。


そして、どうもお医者さんたちは、
痛みの種類を「ちくちく」と「ずきずき」と鈍痛の3種類にわけて
診断の手がかりにしてるらしい。
それを知ってからは、なるべく
「この痛みは3つのうちのどれかな?」って考えるようにしています。
たとえ、五寸釘を打たれるような痛みだ!って思っても、
お医者さんには「ちくちく、針を刺すような痛み」と言わないと
「?」って顔をされたりね、しちゃうのでね。


痛みの強さを伝えるやり方も面白い。
「今まで感じた一番強い痛みを10として、いまの痛みはどれくらい?」
ってきかれる。
すると、たいがい0〜10のうちにおさまるんだけど、
この痛みは4かな?5かな?って迷ったり、
10を超えて11とか12とかいいたくなる日もあって。
そしたら次からどの痛みを10って考えればいいんだろう?って悩んじゃったり。


自分の痛みをそのまんま理解してもらえるわけじゃない。
でも、そんなふうに表現をちょっと相手に合わせるだけで、
「針がさすような痛みなら、この病気かな?」とか
「前より酷くなってるから薬を増やそう」とか、
「前よりマシになってるからこの治療を続けよう」とか、
治療はうまくいく。


こんなことを思い出すと、
このテーマはコミュニケーションについて考えるのにすごくいいなぁ。
メディカルカフェではどんな話がでるのか。
あとで報告きくの、楽しみです。

100521 セミナー「臓器移植法改正ー何が変わるの?」

5月21日(金)の中之島哲学コレージュでは、
セミナー「臓器移植法ー何が変わるの?」を開催しました。
55人ほどの方が参加。
熱心なやりとりをみて、通りすがりに足をとめ飛び入り参加される方もちらほら。

7月に施行される新しい法律では、
「提供しない」と意思表示がなくて
家族の同意があればドナーとして扱われること。
15歳以上であれば、誰でもドナーの候補になること。


今日のセミナーは知らないことが多くて、驚くことばかり。


今日、会場から意見がでたように
15歳以上の子どもへの教育を徹底すること、
またそれ以上に家族と話し合ったり、
自分の意志やドナーカードの在処を伝えておくことが
大事だなぁと思いました。


臓器が提供されたあとに
「提供しません」なんて書かれたカードがでてきたら、
家族もショックだろうしね。
提供する場合も、臓器はナマモノ。
一刻を争う事態だから、
意思表示は明確にしておいたほうが助かるでしょうね。


実はわたし、以前は「提供しない」に○をつけたドナーカードをもっていました。
一卵性双生児の片割れとしてうまれた私。
姉の分身として扱われることも多く、
誰かのスペアみたいに扱われるのがすごくイヤだったんです。
でも、家族の誰にもそのことを伝えておらず、反省。
しかも持ち歩いてたらボロボロになったので捨てちゃったし。


でもなぁ、その一方で、
臓器を提供する/しないを自分で決めるのも
なんだかヘンな気分なんです。
それって、「私の体は私のもの」ってことなのかな?

セミナーをききながら、4月の哲学カフェででた
「自分で所有していないものはあげられない」
という意見を思い出したりしていました。


今回のセミナーできいた「臓器の自給自足」なんてフレーズも
とても不思議な感じがします。


7月まで、もうちょっと悩みそう。
ちょっと家族(予定)とも話し合ってみよう。



さて、4−5月は「贈与」をテーマにプログラムをお届けしてきた中之島哲学コレージュ。
6−7月はテーマ一新。「希望をさがす」でお届けします。
詳しくはコチラをご覧ください。


また明日はグリグラ哲学カフェ
午前中開催なので、寝坊しないように気をつけなきゃ。
お時間のあるかたは、気軽にお越しください。

100516 哲学カフェ「伝わるとはどういうことか?」@クロスロードカフェ

昨日は伊丹の哲学カフェに参加してきました。
参加者は8名+途中から1名追加&ときどきマスター。


テーマはあれこれ話し合ってるうちに

  1. 「伝わるとはどういうことか?」
  2. 「なぜ伝えたいと思うのか?」
  3. 「伝わるとはどういうことか?(なぜ伝えたいと思うのか?)」

の3つの候補がでてしまい、
多数決で決めようとするものの、1と3が同数でならんでしまう。
どうなるかとヤキモキしたが、

「進行役の池田さんが決めたら?」
「じゃ、シンプルなほうがいいとおもうので1で」

で無事決定。ほっ。


テーマをどうしようかと話し合ってるうちに、
どんどん議論の内容にはいってしまい、
言葉の微妙なニュアンスで迷う。
「テーマは当日参加者と相談して決定」タイプの哲学カフェで、
よく起こる事態だ。
私も何度も経験がある。
こういうときは進行役が決めちゃうのがいい。
というか、そうしないと始まらないのでそうすべきだ!
と今回のやりとりで改めて学ばせてもらいました。


さて、肝心の議論の内容はというと

  • 次世代の子どもたちに何が伝えられるのか?
  • 美しさはどうしたら伝わるのか?
  • もともと同じ考えが持つ人が「そうだよね」というのは「伝わった」ことになるのか?
  • 自分の言葉が伝わっていないと感じるのはなぜか?
  • 儀礼的な「美味しかった」と本当の「美味しかった」と、それぞれ何が伝わっているのか?

などの意見、論点がでました。


ちなみに今回進行役をつとめてくださった池田さんは、今回が進行役デビュー。
(といっても、大学でちゃんと進行のトレーニングをする授業を受けているので、
議論の進行をするのは初めてじゃありません。ご安心を)
前回、同じクロスロードカフェでの哲学カフェに参加していたので、感想をきいてみた。

「参加者として参加するのと、進行役をするのとでは、だいぶちがう?」
「全然ちがいますね〜。それぞれの発言がどう関係するのかとか、すごい集中して考えてました」

なるほど〜。
フレッシュな進行役の感想をきき、わたしも進行役をはじめたころの自分を思い出しました。
今企画中の進行役セミナーの参考にもなりそうです。
お疲れさま。